屋万年堂の歴史

History

亀屋万年堂は1938年の創業以来、『ナボナ』をはじめ、数多くの人気商品を生み出し続けてまいりました。その根底にあるのは、創業者である引地末治の「美味しい菓子を作りたい」という情熱。
80年近く経った今でもその情熱を絶やすことなく、成長を続ける亀屋万年堂の歴史をご紹介します。

創業期

夢を抱いての創業、しかし戦争が…

15歳で上京し、浅草橋にある老舗和菓子店・亀屋近江に職人として就職した引地末治は、そこでお菓子職人としての腕を磨き続けました。そして26歳のときに亀屋近江からのれん分けでの開業を許されます。こうして亀屋万年堂が産声を上げることになるのです。

1938年(昭和13年) 12月18日
創 業

亀屋万年堂が現在の本店所在地である自由が丘にて創業。間口わずか2間(畳の長辺の2倍程度)という小さな店舗でした。従業員は創業者の引地末治と妻の敏子、そして地元の福島から連れてきた小僧さんの3人という少人数体制で、お菓子作りから注文取り、配達までを行っていました。日中は販売、夜にお菓子作りを行うという多忙な日々でしたが、やり甲斐を感じながらひたすらに仕事に没頭していきます。ちなみに当時の取扱商品は、最中や羊羹など、純粋な和菓子のみでした。

1941年(昭和16年)
太平洋戦争勃発

忙しいながらも充実の日々を過ごす末治でしたが、時期を同じくして切符制(配給制)が始まり、1941年にはとうとう太平洋戦争が勃発してしまいました。翌年の1942年(昭和17年)8月10日には長男・良一が産まれ、跡取りの誕生に喜んだのもつかの間、企業整備政策で亀屋万年堂は営業を中断する羽目に。さらに末治が戦地に招集されるなど、亀屋万年堂の試練は続きました。

1946年(昭和21年)
亀屋万年堂、営業再開

上海や南京、広東を経て、果ては北ベトナムまでたどり着いた末治は、部隊の多くが戦死する中を無事に生き延び、やがて終戦を迎えます。戦地から帰還後、末治はすぐに営業再開しようと奔走しましたが、物資不足の時代で一時諦めざるを得ませんでした。それでも菓子作りを諦めきれず、しばらくの間は知人の菓子店で手伝いをすることに。そして終戦から1年で、ようやく営業再開にこぎつけました。まだまだ物価は高かったですが、「お菓子の命は、本物の砂糖、水飴、蜂蜜」と材料にこだわった結果、お菓子は飛ぶように売れたそうです。

1948年(昭和23年)3月
自由が丘駅前に2号店を開店

亀屋万年堂は1948年に自由が丘駅前に2号店を開店しました。この際、立地の良さが売り上げに直結することを、身をもって体感した末治は、続々と駅前に新店を出店していきます。1950年(昭和25年)の尾山台店にはじまり、新丸子店、小杉店、川崎駅ビル店、日吉店と店舗を増やしていきます。この当時の店舗が、現在の亀屋万年堂の基礎を築いたと言っても過言ではありません。

発展期

亀屋万年堂のメイン商品『ナボナ』の誕生

亀屋万年堂の代名詞でもある『ナボナ』は、誕生当時、画期的なお菓子でした。和菓子と洋菓子のエッセンスを
取り入れた新時代のお菓子により、亀屋万年堂はその名を広く知られるようになるのです。

1963年(昭和38年)3月
『ナボナ』発売

本格的な生産工場の設立から3年後、亀屋万年堂は『ナボナ』を発売します。まだ和菓子が主力だった当時、イタリア旅行に行った際にヨーロッパのお菓子に感銘を受けた末治の「和菓子と洋菓子の良いとこ取りの商品を作りたい!」という熱意から生み出されました。和菓子にはない食感“ふわふわ”を取り入れた『ナボナ』はあっという間に人気商品となりました。

1967年(昭和42年)6月
王選手起用のTV CMで、一躍全国区に!

根っからの職人であり、商売人である末治は、たびたび周囲を驚かせる経営手腕を発揮しました。『ナボナ』のTV C Mの制作もその一つです。すでにスーパースターの地位を確立していた読売巨人軍の王貞治選手を起用すると発言したものだから、周りはびっくり。それでも実際にCMが放映され、「ナボナはお菓子のホームラン王です」というフレーズが世間に浸透した頃には、『ナボナ』の売れ行きも爆発的に伸び、全国区の大ヒット商品へと成長しました。

1968年(昭和43年)
『ママン』の誕生、そして止まらない成長

この頃、亀屋万年堂では『ナボナ』の売り上げは順調でしたが、その他の和菓子の売り上げは低迷が続いていました。そこで時代に合ったもう一つの看板商品として、1968年(昭和43年)に『ママン』を発売。黄身餡を使ったミルク風味の『ママン』はたちまち人気商品となりました。その勢いもあり、店舗数も順調に増加。東横のれん街店を出店できたときは、末治は「亀屋万年堂も有名店の仲間入りができた」と喜びました。
その後、1969年(昭和44年)12月に本格的な機械化を導入した横浜新工場の建設、1971年(昭和46年)に東急東横線・日吉駅の向かいに菓子店やレストラン、喫茶店を併設した5階建てのビル・カルチェラタンの建設など、事業規模をどんどん拡大していきます。

1974年(昭和49年)3月
鉄筋5階建ての本店ビル落成

亀屋万年堂の鉄筋5階建ての本店ビルが落成する前年、日本はオイルショックで大混乱に陥ります。第4次中東戦争の勃発による原油の供給逼迫と価格高騰が主な要因でしたが、日本全土でインフレが加速していました。しかし、そんな中でも亀屋万年堂は影響を受けることなく、順調に売り上げを伸ばすことができ、新商品『森の詩』の売り上げも順調。『ママン』に代わり、売り上げ第2位のブランドへと躍進しました。その後、王貞治選手のホームラン世界記録756号達成記念セールの追い風もあり、1977年(昭和52年)9月の月間売り上げは前年比実績118.2%という数字を記録することができました。

変革期

亀屋万年堂としての事業の骨子が固まり、
より強固に

会社が成長するに従い、進むべき方向性を確固とする必要が出てきました。美味しいお菓子を作るのはもちろ
ん、会社として社会に信用される存在となるため、亀屋万年堂はスタッフの勤務体制の充実も図ることで、今に
続く亀屋万年堂の基礎を創り上げました。

1979年(昭和54年)4月
3社を設立し、グループ4社体制に

亀屋万年堂では、1979年(昭和54年)4月に、株式会社亀屋万年堂、亀屋万年堂製菓株式会社、株式会社カルチェラタンを設立。本体である合資会社亀屋万年堂から、営業部門、製造部門の譲渡を受ける形でそれぞれ営業を開始し、グループ4社体制となりました。その後、1981年(昭和56年)には経営基本方針を策定。「よりよいお菓子づくり、よりよいサービスを通して お菓子の高級大衆店として社会に貢献する」という方針は、当社の事業の方向性を明確にしました。1982年(昭和57年)には羽田空港の売店へも納品を開始し、予想をはるかに超える売り上げを記録することになります。

1984年(昭和59年)10月
本店の全面改装に合わせ、『女神餅』を発売

亀屋万年堂の特徴として、第2のブランドが頻繁に変わる点が挙げられます。『ママン』や『森の詩』など、常に新しい味を追求し続け、お客様に飽きさせない工夫を行ってきました。
1984年(昭和59年)に発売された『女神餅』も、そうした魅力的な第2のブランドとして、人気を博しました。その一方で『ナボナ』を不動のメイン商品とするため、バリエーション豊かな新商品も随時開発。1983年(昭和58年)には『フルーティーナボナ』を発売し、ブルーベリー、アプリコット、ラズベリーという3種の味は大変好評を得ました。こうした商品開発への探究心こそ、亀屋万年堂が今なお多くのお客様から愛される理由だと自負しております。

1985年(昭和60年)4月
引地良一が新社長へ。そして年商も50億円へ。

創業者の引地末治によって成長を続けてきた亀屋万年堂も、遂に変革の時期に突入します。1985年(昭和60年)4月、引地末治の長男・引地良一が新社長へと就任したのです。引地末治は会長に就任。父である末治のこだわりを引き継ぎつつも、新しい流れを生み出すために事業の見直しを行い、1987年(昭和62年)5月、洋生菓子部門から完全撤退しました。事業撤退と聞くと後ろ向きに聞こえるかもしれませんが、この年に年商は50億円を突破。バブル経済の影響もありますが、それでも再び亀屋万年堂の売り上げは成長曲線を描き始めることになります。

1988年(昭和63年)
亀屋万年堂 創業50周年を迎える

1988年(昭和63年)に創業50周年を迎えた亀屋万年堂は、同年9月に記念式典を開催し、同年10月には記念セールを実施。さらに東急東横線と田園都市線のそれぞれ1両編成の貸切広告電車『TOQBOX』に広告も掲載し、大きな反響を呼びました。この年からは500円ごとにスタンプを1つ押印するお客様カードの発行もスタートし、まさに50年の歴史に驕ることなく、さらなるご愛顧をいただくための新たな一歩を踏み出しました。

1990年(平成2年)11月4日
創業者・引地末治が逝去

亀屋万年堂の歴史を語る上で、この出来事も避けては通れません。1990年(平成2年)11月4日、亀屋万年堂の創業者であり、会長の引地末治が逝去しました。亡くなる2日前まで九品仏店の改装記念セールを視察していたほど、お菓子作りに全てを注いだ一生だったと言えるでしょう。大きな柱を失った亀屋万年堂ではありましたが、翌年の1991年(平成3年)には、別ブランド店として桜新町に『東京ガトウ倶楽部』、広尾に『かしこ』を出店するなど、成長を止めることはありませんでした。広告活動にも力を入れ、さらなる需要拡大に務めました。

1992年(平成4年)
横浜新工場の全面竣工、そして『ナボナ』30周年へ

1992年(平成4年)4月、横浜新工場の全面竣工に伴い、『ママン』を自社製造に戻し、仕入商品の『月のかおり』を自社製品化。製造工程の整備・充実を行いながら、より良い商品の提供に努め続けてきた結果、同年9月の決算で年商61億5351万円を記録し、過去最高額を更新しました。その翌年、1993年(平成5年)には『ナボナ』の発売30周年記念セールを、國松彰が代表取締役副社長に就任した1995年(平成7年)には、春秋恒例のイベントである『春フェスタ』『秋の味覚フェア』がスタートするなど、数多くの試みがスタートしています。なお、同年3月時点で当社グループは、株式会社亀屋万年堂、亀屋万年堂製菓株式会社、株式会社ガトウ倶楽部、株式会社亀万、有限会社かしこ、株式会社ケイ・エム商事となりました。

成熟期

数多くの試練にも負けることなく、
これからも成長を続けます

創業者である引地末治の逝去以外にも、亀屋万年堂には数多くの試練が訪れます。それでも亀屋万年堂は引地末治の遺志を引き継ぎ、決して成長を止めることなく、もっと美味しいお菓子をお届けするために、日々精進を重ねていくのです。

1996年(平成8年)
景気後退が叫ばれる中、創業60周年を迎える

バブル経済が完全に破綻し、景気後退ムードが流れる中で、亀屋万年堂は創業60周年を迎えました。それでも守りに入ることなく、どんどん新しいことに挑戦し続ける亀屋万年堂。1996年(平成8年)5月には、『ナボナ』を一回り小型にしたブッセ『ホワイトクラウドケーキ』をディズニーランドで発売。単品で年商1億円を超える大ヒット商品となります。一方で『ナボナ』のクリームをメレンゲタイプにし、包装も通常のピロー包装に変更するなど、たゆまぬ改善を繰り返してきました。この頃は、病原大腸菌O‐157の社会的大流行や消費税増税など、明るいニュースの少ない時代でしたが、亀屋万年堂では創業60周年の年に発売した『山の手乳菓』が新たな第2位ブランドになるなど、決して歩みを止めることはありませんでした。

2000年(平成12年)
國松彰社長による新体制が始動

國松彰が新社長に就任した2000年(平成12年)も、さまざまな出来事がありました。亀屋万年堂としては、同年2月に『チョコレートカステラナボナ』を新発売。『ナボナ』の新バリエーションとして、多くのお客様に愛される商品となります。一方で社会的には、同年6月に大手乳業メーカーの食中毒事件が起こり、改めて食の安全性が強く求められる時代になりました。また、2002年(平成14年)4月には、特定原材料(アレルギー)表示の完全実施など、食品業界にとって変革の時期でした。

2003年(平成15年)
『ナボナ』発売40周年

『ナボナ』の発売40周年を迎えた2003年(平成15年)は、17日連続の記念セールの実施や記念パッケージ商品の発売など、改めて『ナボナ』の魅力を周知するきっかけとなりました。通常は多くても1日5万個生産のところ、この時期は1日15万個以上を生産するほどの大反響。さらに発売40周年を記念し、商品バリエーションの充実も図りました。レギュラータイプに季節限定商品も加え、5種類に。また、2004年(平成16年)には『麦こがし』『栗まんじゅう』の発売、『森の詩』のリニューアルなど、商品の充実に努めた時期でもあります。会社としても、株式会社亀屋万年堂が株式会社亀万、有限会社かしこを吸収合併するなど、グループ改編も進めました。

2009年(平成21年)
世界同時不況にも負けず、『ナボナLong・Life』発売

2008年(平成20年)、世界は同時不況に見舞われます。アメリカに本社を置くリーマン・ブラザーズの破綻をきっかけに、世界は大混乱に陥りました。そんな中でも、亀屋万年堂は揺るぐことなく、翌年2009年(平成21年)には賞味期限を60日に延ばした『ナボナLong・Life』を発売。直販部門では通常の『ナボナ』をメインに販売し、非直販部門では『ナボナLong・Life』をメインに販売するという臨機応変な売り方によって、売り上げに大きく貢献しました。

2011年(平成23年)
引地大介新社長のもと、新しい時代へと

太平洋戦争もオイルショックもバブル崩壊もリーマンショックも乗り越えてきた亀屋万年堂にとって、経営を揺るがしかねない大事態が起きます。2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災です。被災した直営店こそありませんでしたが、材料の一部を東北地方から仕入れていたため、製造できずに発売中止になった商品すらありました。
そんな大激動の中、同年5月に、引地大介が、代表取締役に就任。震災の影響もあり、節電対策などで製造ラインの変更なども余儀なくされましたが、それでもお菓子作りを止めることはなく、翌年2012年(平成24年)6月には、2億円以上をかけて横浜工場に『ナボナ』の新しい製造ラインを導入。そして、翌々年の2013年(平成25年)は、『ナボナ』発売50周年の節目の年として、さらなる品質改良とバリエーションの充実に努めます。今後も、一人でも多くのお客様に亀屋万年堂のお菓子を楽しんでいただけるよう、美味しさを追求してまいります。